ウーッ......うーたん!
本日の贖罪
「喜びは人生で一遍だけでええど」
今日もしみじみDEAD or CLIMB★彡
6級×2
5級×11
4級×12
3級×1
首を慮って3級以下で調整
思ったよりも大丈夫そうでよかった
スラブ垂壁の奥深さを知る
【焼却まであと283日】
ウーッ......うーたん!
本日の贖罪
「喜びは人生で一遍だけでええど」
今日もしみじみDEAD or CLIMB★彡
6級×2
5級×11
4級×12
3級×1
首を慮って3級以下で調整
思ったよりも大丈夫そうでよかった
スラブ垂壁の奥深さを知る
【焼却まであと283日】
ウーッ......うーたん!
本日の贖罪
「あい...?ああ、愛か、あの惨めな嘘のことね」
今日もしみじみDEAD or CLIMB★彡
5級×5
4級×5
キャンパ
フロントレバー
左肘は9割5分
4級最難を攻略
狙ってた2級は散々撃って落とせなかった挙句背中から落ちて首ヤッたまじ最悪
調子に乗りすぎた
首の可動域が極端に狭まって寝返りに細心の注意を要する
反省三唱
反省反省反省
【焼却まであと286日】
本日の贖罪
「どうぞ先へ行ってください...私は最後尾から行きますので...」
今日もしみじみDEAD or CLIMB★彡
5級×5
4級×4
3級×1
2級×2
フロントレバー
キャンパ
左肘は9割5分回復
右肘問題なし
3日前の追い込みが効きすぎて体幹周りの筋肉痛が残留
年内に1級ひとつバラしたい
垂壁スラブをサボらない
アップの5級×5と4級×4はマストで
【焼却まであと290日】
本日の贖罪
「無邪気だった。だから残酷でいられた」
今日もしみじみDEAD or CLIMB★彡
5級×5
4級×4
3級×1
2級×2
フロントレバー
キャンパ
左肘は9割5分回復
翌日右肘若干違和感
【焼却まであと293日】
本を開く。
目次を眺めて、第一章から読み始める。
わからない。
何を言っているかがわからない。
用語があまりにも高度であるとか、あまりにも難解な言い回しであるとか、そういう原因からくるわからなさだったらどんなに良かっただろう。
あまりにも独りよがりすぎる。いや、というより、宇宙的意味不明さという概念が文字によって受肉しヨダレまみれになりながら疾走してるとでもいうべきか。この本書いてるとき多分著者すごく気持ちよかったんだろうなというような無軌道な恍惚だけは伝わってくる。
というか文章じゃないこれ。
藁にもすがる思いで巻末の解説にむしゃぶりついて、1分後に本棚の最奥にねじこんだ。
女性「へー、色んな本読んでるんだね、そういう男ってぶっちゃけ結構アリ、ねえ、じゃあさ、高校までに読んだ本で1番影響受けたのって何?」
俺「そーだなあ...『月と六ペンス』、かな、サマセット・モームの。訳は金原瑞人のやつ(ニコリ)。あ、知ってると思うけど作家の金原ひとみの父親ね、一応Tips。モームって結局大衆作家でしょみたいな感じですなめられがちだけどやっぱこの作品は出色だわ。高校生ながら妥協のない信念は時に狂気なるんだなあって思った記憶。恐ろしいような...でもやっぱ憧れちゃうよね、ああういうアーティスティックな生き方。あそこまではできないけど、俺もちゃんと自分なりに偏って生きてこうと思ったね。今山登ったりしてるのもそういう影響あるかも。特に印象残ってるのはさ、ストリクランドを引き止めようとする場面なんだけど...」
なあ、おい、在りし日の俺。
きけ。
嘘、ついたよな?この時。
高校までで最も影響受けた本はアレに決まってるのに。
そもそも高校のときに月と六ペンスの話の流れすらわからん理解できたなかったくせに訳者拘ってますアピールなんてよくできるな?
なんでこんなこと言った?
...まあお前の気持ちがわからない俺じゃないさ。
モテたかったんだろ要は。
だから読書を着こなそうとしてみたんだろ?
わかるよ。
だけどな、お前、結果どうなった?
覚えてるよな?
彼女のあの苦笑い。
そして沈黙。
はあ。
あのさ、中身空っぽなやつがいくら言葉で遊んでみてもそんなの響かねえんだよ。
バレバレなんだよお前の軽薄さは。
あえて言うわ。
最高にダサいよお前。
ふぅ。
まあそんなことだけを言いにきたわけじゃねえ。
今日はな、あの日俺が歪めちまった俺自身を救いに来た。
恐れるな。
内容の伴った言葉には“質量”が発生する。
これが、答えだ。
女性「へー、色んな本読んでるんだね、そういう男ってぶっちゃけ結構アリ、ねえ、じゃあさ、高校までに読んだ本で1番影響受けたのって何?」
俺「そーだなあ...『無職転生〜異世界行ったら本気出す〜』、かな。理不尽な孫の手(マゴノテソード)先生の。この作品知ってる?あ、知らない?まあいいや、いやあ、俺ロキシー先生推しなんだけど、負けヒロイン臭いな〜って心配しててさずっと。ほら普通に考えたら最有力がシルフィで次点でエリスじゃん?だからロキシー先生はキツいかな〜って思ってたんだけど、蓋を開けてみたらなんと理不尽な孫の手先生の小粋な計らい炸裂(笑)3人とも嫁にしちゃうって発想はなかったよね!あ、ごめんつまんない?まあシルフィ=デレクォーターエルフ回復魔法使い幼馴染、エリス=ツンデレ脳筋王女剣士幼馴染、ロキシー=ジト目ロリババア魔法使い先生とかいう全方向対応型強欲ラインナップを全員正ヒロインにしちゃうってどう考えても話が破綻しちゃうでしょってのを見事に納めちゃうの、理不尽な孫の手先生は令和のこんまりさんか!ってそもそもこんまりさん令和か(笑)おーい、ここ笑うとこね(爆)あ、あとはバトルシーンだったらやっぱり対オルステッド戦のエリス参戦シーンは外せないよね。あれはマジで鳥肌立っ...え、あ、うん、あ、まじごめん。ちな好きなキャラはエリナリーゼ・ドラゴンロード。」
数年前に読書を通じて絶望したことがあった。
『世界の名著40 キルケゴール』(桝田啓三郎編、中央公論社)を読んだ時だ。
秋だったと思う。
私の本棚に積まれていた何十冊かのいつか読む予定の本の中にそれはあった。
多分何らかの本を読んでキルケゴールに興味が出た時にAmazonで1番安くて著作がまとまってる本を探して買ったんだろう。
なんとなしに手に取ってなんとなしに読み始めた。
油断していた。
「官能や懐疑や絶望に悩みとおし、美的に生きるか宗教的に生きるかの「あれか、これか」の決断の前に悩み抜いて、血みどろになったおのれ自らと戦っているキルケゴールを感じ取ることが必要なのである」
中央公論社の世界の名著シリーズの構成は統一されていて、必ず巻頭で取り上げる人物の生涯や思想の概要が編者によって解説される。その多くは情報量を重視した当たり障りのないものである。
だが、桝田啓三郎先生は違った。「キルケゴールの生涯と著作活動」の章立てで語り始めると、概説という導入の段階にもかかわらず、キルケゴール読解に足る覚悟の有無を突きつけてくる。
私は桝田啓三郎先生に恫喝されている感覚に襲われた。
果たしてその先にはただならぬ敬愛によって描き出されたキルケゴールがあり、圧倒された。
「キルケゴールの作品は、誠実な自己告白のほかのなにものでもなく、一貫して実存のための自己自身との戦いの記録にほかならない」
キルケゴールの思想(著作)は彼自身の人生(日記)と分かち難く一体化しており、それにより相補的に真実性が担保されている。
父の呪い、最愛のレギーネとの訣別、孤独な信仰...。
キルケゴールは生涯コペンハーゲンの片隅でたった1人思索に耽り、紙上で時にさめざめと、時に大声で絶えず泣きながら、また、ひたすら踊り続けた。
「キルケゴールの思想は、実存的なものとして、もともと客観的なもの、普遍的なものと関わりがなく、彼自身体系を築こうなどとは思わなかったし、体系の可能性など信じないばかりか、人生の体系化にまっこうから反対したのである」
徹底して実存的であるが故に、イロニー的(逆説的)に生きることしかできなかった悲哀。
「客観的真理に対して主観的真理はそのために生きそのために死ぬことを願うようなものでなくてはならない」
主観的真理への道を進めば必ず世間と乖離する。
それを承知でキルケゴールは主観的真理への道を進みまさに死ぬその時まで「血みどろになったおのれ自らと戦っている」状態だった。
「思想の表現の中に、その思想の主体である具体的な人間キルケゴールを読み取らなければならない」
論理ではないのだ。
キルケゴールの人生がこのような事態になるしかなかった、その故を我々は主体的に捜索しなければならないのだ。
読み進めていくうちにこの本に出会うために今までの私の読書があったという確信がどんどん強まっていった。
そして、章の最後、「死への挑戦」の項における、キルケゴールによるたった一人のキリスト教界との戦いとその後の死に様に胸を衝かれた。
「寸鉄人を刺すような痛烈な批判の警句、火を吐くような激烈な攻撃の文章が、いささかの容赦もない激しさで、そして誤解も曲解も起こる余地のない率直で的確な表現で矢継ぎ早に、しかもしだいに激越さを加えながら発表された。それはキルケゴールの生命を賭しての戦いであった」
「「私は死ぬためにここへきたのだ」キルケゴールは戦いが終わったことを知っていた。
〜中略〜
親友ベーセンとごく僅かな近親しか病床を訪れることを許さず、兄ですら拒んだ。臨終に牧師から聖餐を受けることをも拒んだ彼は、安らかに神に祈れるかと問われて、答えた。「うん、できる。僕はまず、罪の赦しを祈る。すべてが赦されることを祈る。それから、死に臨んで僕が絶望から解放させてもらえるように、それから、これこそ知りたいことだが、死がいつくるかを、少し前に、知らせてもらえるように、僕は祈る」
〜中略〜
1855/11/11夕方、キルケゴールは永遠の眠りについた」
呼吸の乱れと心拍の加速を感じながらページをめくりつづけ「キルケゴールの生涯と著作活動」を読み終わった時、キルケゴールと桝田啓三郎先生と私が直列した。
そしてそこから逆説的に絶望が生成された。
私の今後の読書はこの書物の輔弼に留まる...。
生涯最高の書物に出会ってしまった興奮ともうこれ以上はないという絶望。
そもそも「キルケゴールの生涯と著作活動」は最初の100ページ程度で、その後に500ページ以上のキルケゴールの著作が続いているのだが、とてもそれを読む体力も気力も残されていなかった。
呆然としていた。
だが、もやのかかった頭の中で今やるべきことを突然理解した。
ふらつく足取りで家を出ると、私は最寄りのセブンイレブンに吸い込まれた。
コピー機で最初のページにあるキルケゴールの写真を印刷しスマホケースにそっと忍ばせた。
───────────────
あれから何年か経ち、今私の本棚にはキルケゴール関連の著作が数十冊あるが、全く難解で持て余している。
「知識を求めるのではなく、著者との対話を通じて人間としての生き方を学ぼうというのでれば、百冊の参考書や解説書を紐解くよりは、どれほど困難であろうとも、一編でも二篇でも作品そのものを根気よく熟読しなくてはいけない」
「キルケゴールの作品はすべて内容解説を読んで梗概を知るだけで理解できるようなものとは、本質的に違うのである」
桝田啓三郎先生はキルケゴール読解のためにデンマーク語を独学習得した。
彼にとってキルケゴールは研究対象ではなかった。キルケゴールの思想と人生が相補的であるように彼の人生そのものとキルケゴールもまた分かち難いものであったのだろう。
今はただただ両者に敬服するばかりである。