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2022年12月11日日曜日

『物質的恍惚』(ルクレジオ、岩波文庫)

 本を開く。

目次を眺めて、第一章から読み始める。

わからない。

何を言っているかがわからない。

用語があまりにも高度であるとか、あまりにも難解な言い回しであるとか、そういう原因からくるわからなさだったらどんなに良かっただろう。

意味のわかる品詞から構成される意味のわかる一節が、節同士文章として連なるととたんに焦点がぼやけて明瞭に意味を捉えられなくなる。

あまりにも独りよがりすぎる。いや、というより、宇宙的意味不明さという概念が文字によって受肉しヨダレまみれになりながら疾走してるとでもいうべきか。この本書いてるとき多分著者すごく気持ちよかったんだろうなというような無軌道な恍惚だけは伝わってくる。

というか文章じゃないこれ。

藁にもすがる思いで巻末の解説にむしゃぶりついて、1分後に本棚の最奥にねじこんだ。

2022年11月6日日曜日

『無職転生〜異世界行ったら本気出す〜』(理不尽な孫の手、KADOKAWA)

女性「へー、色んな本読んでるんだね、そういう男ってぶっちゃけ結構アリ、ねえ、じゃあさ、高校までに読んだ本で1番影響受けたのって何?」

俺「そーだなあ...『月と六ペンス』、かな、サマセット・モームの。訳は金原瑞人のやつ(ニコリ)。あ、知ってると思うけど作家の金原ひとみの父親ね、一応Tips。モームって結局大衆作家でしょみたいな感じですなめられがちだけどやっぱこの作品は出色だわ。高校生ながら妥協のない信念は時に狂気なるんだなあって思った記憶。恐ろしいような...でもやっぱ憧れちゃうよね、ああういうアーティスティックな生き方。あそこまではできないけど、俺もちゃんと自分なりに偏って生きてこうと思ったね。今山登ったりしてるのもそういう影響あるかも。特に印象残ってるのはさ、ストリクランドを引き止めようとする場面なんだけど...」


なあ、おい、在りし日の俺。

きけ。

嘘、ついたよな?この時。

高校までで最も影響受けた本はアレに決まってるのに。

そもそも高校のときに月と六ペンスの話の流れすらわからん理解できたなかったくせに訳者拘ってますアピールなんてよくできるな?

なんでこんなこと言った?

...まあお前の気持ちがわからない俺じゃないさ。

モテたかったんだろ要は。

だから読書を着こなそうとしてみたんだろ?

わかるよ。

だけどな、お前、結果どうなった?

覚えてるよな?

彼女のあの苦笑い。

そして沈黙。

はあ。

あのさ、中身空っぽなやつがいくら言葉で遊んでみてもそんなの響かねえんだよ。

バレバレなんだよお前の軽薄さは。

あえて言うわ。

最高にダサいよお前。

ふぅ。

まあそんなことだけを言いにきたわけじゃねえ。

今日はな、あの日俺が歪めちまった俺自身を救いに来た。

恐れるな。

内容の伴った言葉には“質量”が発生する。

これが、答えだ。


女性「へー、色んな本読んでるんだね、そういう男ってぶっちゃけ結構アリ、ねえ、じゃあさ、高校までに読んだ本で1番影響受けたのって何?」

俺「そーだなあ...『無職転生〜異世界行ったら本気出す〜』、かな。理不尽な孫の手(マゴノテソード)先生の。この作品知ってる?あ、知らない?まあいいや、いやあ、俺ロキシー先生推しなんだけど、負けヒロイン臭いな〜って心配しててさずっと。ほら普通に考えたら最有力がシルフィで次点でエリスじゃん?だからロキシー先生はキツいかな〜って思ってたんだけど、蓋を開けてみたらなんと理不尽な孫の手先生の小粋な計らい炸裂(笑)3人とも嫁にしちゃうって発想はなかったよね!あ、ごめんつまんない?まあシルフィ=デレクォーターエルフ回復魔法使い幼馴染、エリス=ツンデレ脳筋王女剣士幼馴染、ロキシー=ジト目ロリババア魔法使い先生とかいう全方向対応型強欲ラインナップを全員正ヒロインにしちゃうってどう考えても話が破綻しちゃうでしょってのを見事に納めちゃうの、理不尽な孫の手先生は令和のこんまりさんか!ってそもそもこんまりさん令和か(笑)おーい、ここ笑うとこね(爆)あ、あとはバトルシーンだったらやっぱり対オルステッド戦のエリス参戦シーンは外せないよね。あれはマジで鳥肌立っ...え、あ、うん、あ、まじごめん。ちな好きなキャラはエリナリーゼ・ドラゴンロード。」

2022年11月3日木曜日

『世界の名著40 キルケゴール』(桝田啓三郎編、中央公論社)

数年前に読書を通じて絶望したことがあった。

『世界の名著40 キルケゴール』(桝田啓三郎編、中央公論社)を読んだ時だ。

秋だったと思う。

私の本棚に積まれていた何十冊かのいつか読む予定の本の中にそれはあった。

多分何らかの本を読んでキルケゴールに興味が出た時にAmazonで1番安くて著作がまとまってる本を探して買ったんだろう。

なんとなしに手に取ってなんとなしに読み始めた。

油断していた。


「官能や懐疑や絶望に悩みとおし、美的に生きるか宗教的に生きるかの「あれか、これか」の決断の前に悩み抜いて、血みどろになったおのれ自らと戦っているキルケゴールを感じ取ることが必要なのである」



中央公論社の世界の名著シリーズの構成は統一されていて、必ず巻頭で取り上げる人物の生涯や思想の概要が編者によって解説される。その多くは情報量を重視した当たり障りのないものである。

だが、桝田啓三郎先生は違った。「キルケゴールの生涯と著作活動」の章立てで語り始めると、概説という導入の段階にもかかわらず、キルケゴール読解に足る覚悟の有無を突きつけてくる。

私は桝田啓三郎先生に恫喝されている感覚に襲われた。

果たしてその先にはただならぬ敬愛によって描き出されたキルケゴールがあり、圧倒された。


「キルケゴールの作品は、誠実な自己告白のほかのなにものでもなく、一貫して実存のための自己自身との戦いの記録にほかならない」


キルケゴールの思想(著作)は彼自身の人生(日記)と分かち難く一体化しており、それにより相補的に真実性が担保されている。

父の呪い、最愛のレギーネとの訣別、孤独な信仰...。

キルケゴールは生涯コペンハーゲンの片隅でたった1人思索に耽り、紙上で時にさめざめと、時に大声で絶えず泣きながら、また、ひたすら踊り続けた。


「キルケゴールの思想は、実存的なものとして、もともと客観的なもの、普遍的なものと関わりがなく、彼自身体系を築こうなどとは思わなかったし、体系の可能性など信じないばかりか、人生の体系化にまっこうから反対したのである」


徹底して実存的であるが故に、イロニー的(逆説的)に生きることしかできなかった悲哀。


「客観的真理に対して主観的真理はそのために生きそのために死ぬことを願うようなものでなくてはならない」


主観的真理への道を進めば必ず世間と乖離する。

それを承知でキルケゴールは主観的真理への道を進みまさに死ぬその時まで「血みどろになったおのれ自らと戦っている」状態だった。


「思想の表現の中に、その思想の主体である具体的な人間キルケゴールを読み取らなければならない」


論理ではないのだ。

キルケゴールの人生がこのような事態になるしかなかった、その故を我々は主体的に捜索しなければならないのだ。

読み進めていくうちにこの本に出会うために今までの私の読書があったという確信がどんどん強まっていった。

そして、章の最後、「死への挑戦」の項における、キルケゴールによるたった一人のキリスト教界との戦いとその後の死に様に胸を衝かれた。


「寸鉄人を刺すような痛烈な批判の警句、火を吐くような激烈な攻撃の文章が、いささかの容赦もない激しさで、そして誤解も曲解も起こる余地のない率直で的確な表現で矢継ぎ早に、しかもしだいに激越さを加えながら発表された。それはキルケゴールの生命を賭しての戦いであった」



「「私は死ぬためにここへきたのだ」キルケゴールは戦いが終わったことを知っていた。

〜中略〜

親友ベーセンとごく僅かな近親しか病床を訪れることを許さず、兄ですら拒んだ。臨終に牧師から聖餐を受けることをも拒んだ彼は、安らかに神に祈れるかと問われて、答えた。「うん、できる。僕はまず、罪の赦しを祈る。すべてが赦されることを祈る。それから、死に臨んで僕が絶望から解放させてもらえるように、それから、これこそ知りたいことだが、死がいつくるかを、少し前に、知らせてもらえるように、僕は祈る」

〜中略〜

1855/11/11夕方、キルケゴールは永遠の眠りについた」


呼吸の乱れと心拍の加速を感じながらページをめくりつづけ「キルケゴールの生涯と著作活動」を読み終わった時、キルケゴールと桝田啓三郎先生と私が直列した。

そしてそこから逆説的に絶望が生成された。

私の今後の読書はこの書物の輔弼に留まる...。

生涯最高の書物に出会ってしまった興奮ともうこれ以上はないという絶望。

そもそも「キルケゴールの生涯と著作活動」は最初の100ページ程度で、その後に500ページ以上のキルケゴールの著作が続いているのだが、とてもそれを読む体力も気力も残されていなかった。

呆然としていた。

だが、もやのかかった頭の中で今やるべきことを突然理解した。

ふらつく足取りで家を出ると、私は最寄りのセブンイレブンに吸い込まれた。

コピー機で最初のページにあるキルケゴールの写真を印刷しスマホケースにそっと忍ばせた。

───────────────

あれから何年か経ち、今私の本棚にはキルケゴール関連の著作が数十冊あるが、全く難解で持て余している。


「知識を求めるのではなく、著者との対話を通じて人間としての生き方を学ぼうというのでれば、百冊の参考書や解説書を紐解くよりは、どれほど困難であろうとも、一編でも二篇でも作品そのものを根気よく熟読しなくてはいけない」


「キルケゴールの作品はすべて内容解説を読んで梗概を知るだけで理解できるようなものとは、本質的に違うのである」


桝田啓三郎先生はキルケゴール読解のためにデンマーク語を独学習得した。

彼にとってキルケゴールは研究対象ではなかった。キルケゴールの思想と人生が相補的であるように彼の人生そのものとキルケゴールもまた分かち難いものであったのだろう。

今はただただ両者に敬服するばかりである。

2022年11月2日水曜日

『同じ月を見ている』(土田世紀、小学館)

俺なりに自分の人生を頑張ってきたつもりだ。

小中高と真面目に通って部活にも入って、勉強して大学入って山登って(?)就職して(辞めて)。

“社会にとっての善”と“自分にとっての善”の折衷点を見極めて、努力して、もちろん全てが思い通りに行ったわけではないし、俺だけの力でなんとかしたわけでもないけれど、それなりに自分の現状に納得している。

なのになぜか、この作品を読むと全ての前提を履き違えているような、何か途方もなく見当違いな生き方をしているような気になってしまう。

なぜ、この作品はこんなに私の存在を脅かすのだろう。

なぜ、この作品を読むと何回でも泣いてしまうのだろう。

───────────────────

『同じ月を見ている』(土田世紀、小学館)は全7巻のマンガで、水代元(通称ドン)という人物が、人間社会に当然ある嘲笑、憎悪、侮蔑、嫉妬、嘘、裏切り、暴力を一身に引き受ける物語である。

天涯孤独でみすぼらしく端から見れば愚鈍なドンに対して世の中のいわば“普通の人”は簡単に残酷になる。

悪気のない悪意にさらされてボロボロになりながらもただ静かに笑っているドン。

ドンについて作中のある人物はこう言う

「あの子の人生には自分が勘定に入っていないんですから」

ドンは決して留まらない。

人がその尊さに気づくのはいつだってドンが立ち去った後だった。

「先生だってイヤだろ!?どんな事情か知らねえけど、こいつが行こうとしてる所なんざ見当がつく!殴られたり嘘をつかれたり裏切られたり...いいように利用されるためにわざわざこっちから出向いていくようなもんじゃねえか!!」

そして、物語は最後、一つの詩へと収斂していく。

───────────────────

大学3年生の時にこの作品を読んだ。

大学生活を通して唯一の友人でありやたらと蔵書が多いIの家によく入り浸っていた。

これ良かったわ

ほーん読むわ

Iの勧める本の打率は10割なので読む以外に選択肢はない。

劇画っぽい硬派な絵だなあとか思いつつ読んでいくうちに、あれこれもしかして俺にとってめちゃくちゃ重要な書物じゃね?ということに気づき始める。

全7巻をイッキに読み午前2時、感動でぶるぶる手が震え、愕然とした。

え、やば...なんなんこれ...んん?え?ちょ待って、もう一回読むわ、ていうか目頭熱っ

それからすぐに全巻電子書籍で買い揃えて今日まで何十回も読んだ。

───────────────────

ずっと行為にこそ意味があると思っていた。

だから何もできない自分に小中高は自信がなかった。

勉強はあんまりできない、部活もあんまり強くない、生徒会に入るわけでもない。

情熱のない生活の中、一生懸命何かに打ち込んでいる人を半ば羨望の眼差しで、半ば冷笑的に眺めていた。

一生懸命やって成果を出している人は羨ましかった。

逆に一生懸命やってるのに成果が出ない人は心の中で笑った。

人を見る目はそのまま自分に向けられた。

一生懸命やって結果が出ないことが怖かった、みんなに笑われたくなかった。

尊重されたかった。

だから、“一生懸命やる”という土俵に上がることができなかった。

結果が出れば良い。

だが、結果が出なかったら...。

学校の仲間内での評価がそのまま俺の存在価値だと思っていたから。

大学受験を通して社会的評価が俺の存在価値にすり替わった。

だから頑張るしかなかった。

大学に入って山登りを通じて行為の中に自分を見出した。

登山中、ヤバい局面の真っ只中のど真ん中にいる時の、自分の存在の絶対性を仄かに感じ取れる一瞬。

それは世界の全ての時間的広がりと空間的広がりが俺自身に圧縮封入されたかのような、揺るぎない感覚。

自分の存在を確かめるように登った。

大学卒業後、就職して10ヶ月で辞めた。

それから半年間、資格勉強のために自宅浪人しながらひたすら内省した。

それは俺の中に漂流している今までのあらゆる取り返しのつかないことを、あるべき引き出しにそれぞれ丁寧に仕舞っていく作業だったと思う。

それを通じて、やっと俺は俺自身の存在を無条件で肯定することができるようになった気がする。

社会が俺のことを無価値だと言っても今の俺は俺の存在をここにいるからというだけで絶対肯定できる。たぶん。

人間の価値は行為ではなく存在に宿る、と今だから言える。

───────────────────

ドンには何もない。

家族も、学歴も、職も、お金も、家も、服だって一着しかない。

しかも口下手で鈍い。

はっきりと社会性皆無だ。

そんなドンは誰からも尊重されず、時にゴミのように扱われる。

ドンと関わり人がその存在の内に秘められた冒し難い絶対の価値を感じるようになるころ、ドンは誰に告げることもなく立ち去る。

何も持っていないのに、なぜ与えることを考えるのか。

なぜ自分の存在を自分以外の保証なしにそのまま信じることができるのか。

ドンの生き方ははあまりにも美しい。

そう感じるからこそ怖くなる。

何回読んでも俺とドンの距離は縮まらない。

ドンはいつも美しく作品の中にいて、俺は読むたびに深く感化されるのに、自分自身の人生ににそれを反映させることをしない。

翌日にはせっせと傲慢で欲深い人生を再開する。

“存在自体に価値がある”とわかったふりをしても結局中学時代の価値体系に閉じ込められたまんまだ。

絶対にドンのようにはなれない、だが、ドンの中に人間の極限の美を見出してしまう。

このどうしようもない相克の狭間にいるとき、俺はやるせなくて泣いてしまうのかもしれない。

 (余談だが、私の涙腺は基本的にムキムキに締まっている。この前おじいちゃんが死んだ時も、中学生の時に学校一の不良(現在恐喝で服役中らしい)に毎日ボコられているときも泣かなかった。)



2022年4月14日木曜日

荒野より



握りしめた拳


そっと開く掌


青色の国民健康保険証


被保険者氏名に記載されているのはもちろん大好きなママの名前


とうとうたどりついちまったんだな


無職という名の、荒野に


(to be continued...)



道端で見つけた可憐な花を添えて...




2022年1月16日日曜日

指宿沿岸単独ハンモック年越

 スミ

12/29-1/2


年末の鹿児島中央駅付近に────

赤い60Lマカルーを背負った挙動不審な男がいたはずだ。


真顔と薄笑いの反復横跳び。


あるいはノイローゼ。


そう、その男は2021年初冬から慢性的な抑鬱症状を患っていた。


彼は探していたのだ。

自己同一性のど真ん中に穿たれた虚空と、等量の何かを。


だから鹿児島へ来た。


それなのに──────。




底の抜けたヤカンにいくら水を注いでもちっとも水はたまらない。

ただ、通過していくだけだ。


同じように。


胸の真ん中のぽっかり空いた穴にいくらエモい情報や体験を注いでも、それはただの情報として通り過ぎていくだけだった。

かつてそこから発露されていた感情。

私はどこへ置いてきてしまったのだろう。







自我が収縮していく。

ウニの体のように闊達で鋭敏だった感性が、のっぺりした球体になる。

絶えず同調を要求された。

必死に笑った。

削られたなあ。

主体性は死んだ。

いや、自らの手でなぶり殺しにした。





怒り、悲しみ、喜び、哀切、嫉妬、憎悪、愛、狂気、────美しい。

もう、俺には何もない。




「動機を下さい」


いま私の願いごとが

かなうならば動機がほしい

この背中に鳥のように

白い動機つけてください

この大空に動機をひろげ

飛んで行きたいよ

悲しみのない自由な空へ

動機はためかせ

行きたい


いま富とか名誉ならば

いらないけど動機がほしい

子どものとき夢みたこと

今も同じ夢に見ている

この大空に動機をひろげ

飛んで行きたいよ

悲しみのない自由な空へ

動機はためかせ

この大空に動機をひろげ

飛んで行きたいよ

悲しみのない自由な空へ

動機はためかせ

行きたい

2021年12月19日日曜日

阿寺渓谷の大沢大滝を登った

 2021/10/17

コサカ、アカホリ、スミ


こんばんは。

今日は現代社会において、典型的サラリーマンとして生きていくことが苦手な人が、典型的なサラリーマンとして生きていくために必要な心構えについて書きたいと思います。

結論から申し上げますと、それは、“生殺しにされる覚悟”です。

『サピエンス全史』に書かれているように、人間は狩猟採集から農耕へと移行する際に、ある契約を結びました。

「個の幸せを放棄する代わりに、種の繁栄を賜りますよう」

こうして、人々は家畜と農作物を奴隷化し、繁栄したかに見えました。

しかし、その実、種の繁栄という観点で言えば、人々は農作物と家畜の繁栄のために奴隷化されたとも言えるのでした。

人間はその過程で、種の繁栄のために個を捧げる精神=自己家畜化された個人が尊ばれ、その形質が選択され続けました。

ちょうど猪を豚に家畜化したように(人為的に)、人間も穏やかで調和を重んじる方向に家畜化されていきました(勝手に)。

その結果、個としてではなくシステムの一部としての個人がますます先鋭化していき、社会もそれに親和的な構造になっていきました。

何が言いたいかというと、

「俺は社畜じゃねえ、自畜だ」

社会は何も強制しません。

論理的に考えれば有給を20日連続で使えます。

法律で決まっているからです。

私は今すぐ会社をばっくれて沖縄に行くことができます。

おそらく1日かからないでしょう。

しかし、私はそれができないのです。

社会はただふんわりとそこに存在し、微弱な生権力を放ちます。

すると個人は勝手に自己家畜化し、あっという間に従順な自(己家)畜になるのです。

社会はいつだって優しい。

罰則規定はありません。

何も強制されていません。

社会は漠然とした風潮としてそこにあるだけ。

それが放つ存在感を私自身が勝手に解釈して私自身を律動させるのです。

結局、自作自演なんだと思います。

とはいえ!

種の繁栄のためには抗えません。

すなわち、喜んで全面降伏です。

耳を澄ませば聞こえてきます。

とてもありがたく尊い、ひたすら生きることへの絶対肯定が基調となって流れるメロディ。

このオーケストラでは“決死の覚悟”などというものは不協和音を生み出す害悪です。ブブゼラです。

おや、聖歌隊も出てきて歌いはじめました。

「正しく長く大事に生き抜くぞ!今が苦しくても未来があるぞ!未来のために今が辛くても耐えるんだ!」

なんて美しい。







激闘!イグルー教室!

 2021/12/11-12

ヨネヤマ先生、その他多数


ンー!

オイラ、イグルー大好きイグルー坊や!

3度の飯よりイグルーが好きなんだい!

オイラのイグルーを喰らえ!





2021年9月9日木曜日

あの夏の日のメモワール

イワデ、サカイ、スミ

2021/8/11-12







yoyoyo


来たぜ

石川県は能登半島

ここは七尾

イケてるやつが集う場所


釣りにカヤック、キャンプにスウィーツ

こいつらぜんぶここにある


hey-ho 

hey-ho

右か左か或いは上か

(まさか)

後ろか前かそれとも下か

(それでも)

見つからねえよ不織布マスク!(wow)


hi-ho

hi-ho


こんなやつがいるらしい

噂によるとこんなやつ

上着は黄色いアロハシャツ

温泉タオルを顔に巻き

「いやこれマスクやろ」

なんて言い張るそんなやつ


宝箱みたいなショーケース

Googleレビューは4.0

すっげえおしゃれなその店に

噂のアイツがやってきた

バナナ柄のアロハシャツ

タリバン風の布マスク

「ケーキを下さいおいしいおいしいケーキを下さい」


半笑いのお姉さん

スウィーツ店のお姉さん

ケーキを欲しがるアイツに一言

「マスクを着用していない方は入店できません」

流石のアイツも黙って買い取り

不織布マスクを黙って買い取り

現金一括50円


現金一括50円


現金一括50円


現金一括50円


...

2021年8月1日日曜日

エコ大滝登攀のすゝめ 〜大滝登攀は残置回収まで〜

 2021/07/22

スミ、サカイ





オッス!

オラ人間生命!


せっかくの4連休だから長大な沢登りに行くって?

オメェ馬鹿いってんじゃねぇぞ!

いいからエコ大滝登攀すっぞ!


〜回収成果〜

敗退残置(トーテムカム×2、カラビナ×2.、スリング×2)

C4カム赤×1

カラビナ×2

ドローン×1


最初の敗退時に3P目途中に残置したサカイさんのトーテムカムたち。

コイツらはマイクロながら俺の墜落も止めてくれた優秀なブラゼェ(ブラザー)だ。

1ヶ月近く澗満滝で修行を積んだコイツらは見違えるほど変色していて、ナメック星人みたいになってやがる。

どんだけ強くなってやがんだ。

早くオメェたちの修行の成果が見てぇぞ!


2P目の水流横断の際に吹っ飛ばされたカラビナ2枚。

見つかるわけねェと思ってたのにオメェたちはひょっこり戻ってきたよな。

へへ。

少しはやるようになったみてぇだな。

オラわくわくすっぞ!


5P目のリードをしていたサカイさんがヤケクソになって落としたオラのC4カム赤。

オメェはいっつもオラのギアラックにしがみついてぶるぶる震えるばっかりだったよな。

だけど、今回50m以上落下した上に5日間放置されたオメェ、顔つき変わってんぞ

今のオメェならフレアしたクラックで10mくらいフォールしても止めてくれそうだな!


澗満滝右壁に激突して墜落したドローン。

オメェには20万円というタカバヤシさんの全財産が宿ってるよな。

だけどオメェはいままでそれに甘えてたよ。

だけど今のオメェは違う。

カメラもプロペラも失ったけど、オメェ、前よりもかっこいいじゃねぇか

知ってっか?

伊達政宗って隻眼だったんだぜ?

撮影能力も飛行能力も無くしたオメェのその喪失の向こう側、楽しみにしてっぞ!


どいつもこいつも今回の登攀でしっかり経験つんでひとまわりもふたまわりも逞しくなってやがる。

これからもよろしくなっ!

澗満滝を登った


























 1


「なんていうか簡単に他人に迎合しないところが好きだったよ」

彼女は言った。

「ありがとう、ばいばい」

そう付け加えて、彼女は私の人生から去っていった。


2


自己欺瞞のないように生きてきたつもりだ。

だからこそ、彼女の不在が苦しかった。

言い訳ができない。

取り繕うことすらままならない。

心から関係を深めていきたいと切望する人、一緒に居続けたい人、大好きな人に私の本当を拒絶されてしまったら、どうすれば良いのだろう。

迷いと、虚無と、行き場のない愛の残滓と。

私は内側に渦巻く悲観の混沌に従順であることしかできなかった。


3


なぜ澗満滝を登ったのか。

なぜ澗満滝でなければならなかったのか。

大いなる不確かな存在の内側に潜り込んで、滅茶苦茶にされた挙句、死亡寸前で生還したかったのだろうか。

違う。

いや、違わないかもしれない。

彼女の不在がもたらした心の荒野に蜃気楼を思わせる朧げな像として澗満滝が浮かび上がってきて、それは近づけば遠ざかり、遠ざかると近づいてきた。

ある夜、私は幼子がそうであるように、あらゆるものが捨象されて、まっすぐにその蜃気楼へと手を伸ばしていた。


4


鑑賞対象としての澗満滝は美しい滝だ。

その滝身は白と黒の間を行き来していて周りは緑に彩られている。同時に高く垂直に激しく屹立していて、そして、そこに一条というにはあまりにも散漫に水を垂れ流している。

すなわち、鑑賞対象としての澗満滝に宿る美しさ、それは貞淑さと聡明さを備えた天真爛漫な学級委員長である。運動神経も抜群かもしれない。

わかりやすく魅力的でありながら他を寄せ付けない高潔さも具備していて、一切が調和している。


だが、登攀対象としての澗満滝は美しく在ると同時に極めて困難な滝でもある。

107mという大きさ、岩の強烈な脆さ、傾斜の強さ、水量の多さ、情報の乏しさなどにより登攀の不確実性が著しく上がることが理由として挙げられる。

つまり、登攀対象としての澗満滝に、私が見るのは、ざんばら髪を振り乱しながら狂乱の笑いを撒き散らす老婆だ。

それは、醜態であり、不協和音であり、踏切遮断機によって離れ離れになった親子であり、北極星のない星空でもある。


5


澗満滝へは合計6回訪れたことになる。

1回目は鑑賞のため、2回目は登攀の偵察のため、3.4.5回目は登攀のため、6回目は残地物の回収のため。

3回目以降は大滝登攀の先端であるサカイさんと共に澗満滝を訪れ、5回目には撮影担当としてサカイさんの幼馴染であるタカバヤシさんが来てくれた。


6


2021年6月20日


3回目の来訪時、私とサカイさんは澗満滝の登攀を試みた。


1P目

中学生の頃。

学年一の不良だったOと敵対した私は、昼休みの教室で顔面を殴打された。

私は教室の隅で崩れ落ち、殴打された左眼を手で押さえてただただOを睨みつけることしかできなかった。

凍りついた教室。

「ちょっといい加減にしなよO君!」

その静寂の帳を破ったのは彼女だった。

時間は再び動き出し、彼女がOと睨み合っている横を通って、私はなす術もなく保健室へと連れていかれた。

あの時からだった気がする。

私にとって彼女の存在が取り返しのつかないほど大きな意味を持つようになったのは。

それは、命に関わる一目惚れだった。


2p目

中学生の頃。

バドミントン部だった私とバレー部だった彼女は同じ体育館で練習をしていた。

私の部活が緩かったこととは対照的に、彼女の部活はとても厳しく、体育館にはいつもバレー部顧問の怒号が響いていた。

ある日の部活中に体育館裏の水道へ行くと彼女がうずくまって泣いていた。

ぎょっとしたものの何も見てないフリをして立ち去ろうとした時、彼女が言った。

「誰にもいわないでよ!」

何と返せば良いかわからなかった。

当時の私の精一杯は、

「だから気づかないフリしたじゃん!」

と言って、走り去ることだった。


3P目

高校生の頃。

私と彼女は別々の高校に進学したが、通学時の最寄駅は同じで、乗る電車の時間も同じことがしばしばあった。

私はいつも駅に着くと彼女の高校の制服である青いワイシャツを探していた。

そして、彼女の後ろ姿を見て何度話しかけようとしただろう。

今思えば本当になんてことないことだ。

だが、当時の私には終ぞそれが出来なかった。挨拶さえも。

頭の中で何回も喋りかける予行演習をして、でも現実では何も出来なくて、苦悩して、次こそはと決意する。

その繰り返しだった。


3P目の登攀で墜落した私はロープにぶらさがりながら墜落地点を仰ぎ、睨みつけていた。

左手で保持していた巨大な岩が体重をかけた瞬間に大きく動き、その連鎖反応で足場が崩壊して墜落した。

直前に極めたプロテクションで墜落は止まったものの、落石によってロープの外皮は破断し、墜落を止めたスリングはほとんど切れていた。

「もう一回トライしていいっすか?」

確保してくれているサカイさんに聞くと、複雑な表情を浮かべながらも同意してくれた。

ロープの外皮が破断した部分10m程度を切断して結び直し、トライを続行する。

だが、墜落地点の上部の岩の状態はあまりにも不安定であり、登攀を継続することにより先の墜落時と同等以上の崩壊を招く危険性が高いことは明白だった。

結局私たちはその地点から下降した。


私たちはこの日、澗満滝を登ることができなかった。


7


2021年7月17日

私とサカイさんは再び澗満滝の登攀を試みた。

このときは撮影担当としてタカバヤシさんも来てくれた。


1P目

大学生の頃。

成人式で会った彼女は私の懸念を遥か凌駕しており、衝撃そのものだった。

それによって私の中には、完璧に操作不可能などうしようも無い彼女への愛情、凄まじい暴風域を伴った台風、いや、地球を滅亡へと導く超巨大隕石とでもいうべき感情が同時多発的に発生し、頭の中が木っ端微塵になった。


2P目

大学生の頃。

初めて彼女と私の2人きりで食事に行った。

夢か現か判断つかない感覚で、ずっとくらくらしていた。

帰り道、駅へ向かう途中、私はあたかもこの世界で最も自然な現象の一つであるかのように彼女の手を握った。

彼女は教科書に載せたいくらい模範的な驚愕の表情を浮かべたのち、まっすぐ前を向いて何も喋らなくなった。

私も何も喋れなかった。

「切符買わなきゃ」

券売機の前に来て、彼女は独り言のように言った。

彼女があの時に私の手を握り返してくれていたかどうかは、もう忘れてしまった。


3P目

大学生の頃。

下宿先へ高速バスで帰る際に、乗車場所のサービスエリアまで彼女が車で送ってくれた。3月の夜はまだ随分と寒さが残っており、バスが来るまでの間、2人で車内に居た。

手を繋いで、口数はお互いに少なかった。

夜景がよく見える駐車場だった。

彼女はその時ピンク色のモコモコした生地の上着を着ていて、それを思い返す度になぜか少し笑える。


4P目

2人でもんじゃ焼きを食べに行ったこともあったな。

ただただ、楽しかった。

そして、愛おしかった。

だけど、愚かだった。今も。


5P目

「結婚を前提に付き合ってる人がいるんだよね」

或いは、なんてことないことのような、今日の天気についてのような、そんな話ぶりだったかもしれない。

私にしたってこの報告は別に青天の霹靂だったわけではない。

そうだったはず。

だが、恥も外聞もなく、情けなく、みっともなく、私は全てを告白した。後出しで。

ここまで面の皮の厚い人間だったのだ私は。

そして、彼女は審判を下した。


6P目

「なんていうか簡単に他人に迎合しないところが好きだったよ」

彼女はそう言ってくれた。

「ありがとう、ばいばい」

最後の言葉の残響が、鳴り止まない。


21時00分

私とサカイさんは澗満滝の落口にいた。


5回目の来訪で、私たちは澗満滝を完登した。


8


澗満滝を登る前、友人からこんなことを言われた。

「"あの時の私は、あの時の私でしかあり得なかった" という苦しみが、今のお前を苦しめているんだな」


"あの時の私は、あの時の私でしかあり得なかった"

今の私が、今の私でしかありえないように。

そこに、後悔も仮定も入り込む余地はない。


ならば、この苦しみにどのような解釈を与えれば良いのだろう。

過去は不可塑なのに、私の過去は私を形作る全てなのに、私は今、私の過去そのものが苦しい。


9


澗満滝を登って気づいたことがある。

この滝は一定ではない。

一見堂々たる威容を誇り整然として充実しているにも関わらず、その実、とても不安定で止めどなく、どうしようもなく崩壊し続けている。

つまり、澗満滝は崩壊によりいずれ全ての落差を失い、その存在は滅亡する。

流れ続ける水も、触れただけで落ちる岩も、澗満滝が変化し続ける有限な存在であることの証左だ。

そして、今この瞬間も自身の滅亡に向けて変化し続けている。

絶えず変化し続けるということは、絶えず滅び続けているということでもあるのではないか。


この気づきを私に敷衍するなら、生きるということは絶えず死という結末に向かって変化し続けるということであり、死ぬということは一定になるということであると言えるはずだ。


そうであるならば、私自身が生きている以上、一定であるものなんて何一つない。

毎分毎秒私の身体も心も全て変容し続け、更新され続ける。

これは、今私が抱えている苦しみにだって適用できる。


過去は確定した事実であり変容しないが、苦しみの根源は過去という事実に対する解釈だ。

私は今、私自身の過去に対して苦しみという解釈を与え続けている。

そして、この苦しみはこの先和らぐ保証はないし、和らがない保証もまた、ない。

だが、今のこの苦しみが永劫続かない保証はある。

それは澗満滝の存在が有限であるように、私の生もまた限られているからだ。

だからこそ、生きるということは、滅びるということは、怖いことだが、愛おしいことでもあるのだ。


問い続けるしかない。

だが、永劫続くかのようなこの苦しみさえ、絶えず私とともに変化し続け、そして私とともに滅びゆく。

それは、今の私にとっては救済であるように思える。