2022年11月2日水曜日

『同じ月を見ている』(土田世紀、小学館)

俺なりに自分の人生を頑張ってきたつもりだ。

小中高と真面目に通って部活にも入って、勉強して大学入って山登って(?)就職して(辞めて)。

“社会にとっての善”と“自分にとっての善”の折衷点を見極めて、努力して、もちろん全てが思い通りに行ったわけではないし、俺だけの力でなんとかしたわけでもないけれど、それなりに自分の現状に納得している。

なのになぜか、この作品を読むと全ての前提を履き違えているような、何か途方もなく見当違いな生き方をしているような気になってしまう。

なぜ、この作品はこんなに私の存在を脅かすのだろう。

なぜ、この作品を読むと何回でも泣いてしまうのだろう。

───────────────────

『同じ月を見ている』(土田世紀、小学館)は全7巻のマンガで、水代元(通称ドン)という人物が、人間社会に当然ある嘲笑、憎悪、侮蔑、嫉妬、嘘、裏切り、暴力を一身に引き受ける物語である。

天涯孤独でみすぼらしく端から見れば愚鈍なドンに対して世の中のいわば“普通の人”は簡単に残酷になる。

悪気のない悪意にさらされてボロボロになりながらもただ静かに笑っているドン。

ドンについて作中のある人物はこう言う

「あの子の人生には自分が勘定に入っていないんですから」

ドンは決して留まらない。

人がその尊さに気づくのはいつだってドンが立ち去った後だった。

「先生だってイヤだろ!?どんな事情か知らねえけど、こいつが行こうとしてる所なんざ見当がつく!殴られたり嘘をつかれたり裏切られたり...いいように利用されるためにわざわざこっちから出向いていくようなもんじゃねえか!!」

そして、物語は最後、一つの詩へと収斂していく。

───────────────────

大学3年生の時にこの作品を読んだ。

大学生活を通して唯一の友人でありやたらと蔵書が多いIの家によく入り浸っていた。

これ良かったわ

ほーん読むわ

Iの勧める本の打率は10割なので読む以外に選択肢はない。

劇画っぽい硬派な絵だなあとか思いつつ読んでいくうちに、あれこれもしかして俺にとってめちゃくちゃ重要な書物じゃね?ということに気づき始める。

全7巻をイッキに読み午前2時、感動でぶるぶる手が震え、愕然とした。

え、やば...なんなんこれ...んん?え?ちょ待って、もう一回読むわ、ていうか目頭熱っ

それからすぐに全巻電子書籍で買い揃えて今日まで何十回も読んだ。

───────────────────

ずっと行為にこそ意味があると思っていた。

だから何もできない自分に小中高は自信がなかった。

勉強はあんまりできない、部活もあんまり強くない、生徒会に入るわけでもない。

情熱のない生活の中、一生懸命何かに打ち込んでいる人を半ば羨望の眼差しで、半ば冷笑的に眺めていた。

一生懸命やって成果を出している人は羨ましかった。

逆に一生懸命やってるのに成果が出ない人は心の中で笑った。

人を見る目はそのまま自分に向けられた。

一生懸命やって結果が出ないことが怖かった、みんなに笑われたくなかった。

尊重されたかった。

だから、“一生懸命やる”という土俵に上がることができなかった。

結果が出れば良い。

だが、結果が出なかったら...。

学校の仲間内での評価がそのまま俺の存在価値だと思っていたから。

大学受験を通して社会的評価が俺の存在価値にすり替わった。

だから頑張るしかなかった。

大学に入って山登りを通じて行為の中に自分を見出した。

登山中、ヤバい局面の真っ只中のど真ん中にいる時の、自分の存在の絶対性を仄かに感じ取れる一瞬。

それは世界の全ての時間的広がりと空間的広がりが俺自身に圧縮封入されたかのような、揺るぎない感覚。

自分の存在を確かめるように登った。

大学卒業後、就職して10ヶ月で辞めた。

それから半年間、資格勉強のために自宅浪人しながらひたすら内省した。

それは俺の中に漂流している今までのあらゆる取り返しのつかないことを、あるべき引き出しにそれぞれ丁寧に仕舞っていく作業だったと思う。

それを通じて、やっと俺は俺自身の存在を無条件で肯定することができるようになった気がする。

社会が俺のことを無価値だと言っても今の俺は俺の存在をここにいるからというだけで絶対肯定できる。たぶん。

人間の価値は行為ではなく存在に宿る、と今だから言える。

───────────────────

ドンには何もない。

家族も、学歴も、職も、お金も、家も、服だって一着しかない。

しかも口下手で鈍い。

はっきりと社会性皆無だ。

そんなドンは誰からも尊重されず、時にゴミのように扱われる。

ドンと関わり人がその存在の内に秘められた冒し難い絶対の価値を感じるようになるころ、ドンは誰に告げることもなく立ち去る。

何も持っていないのに、なぜ与えることを考えるのか。

なぜ自分の存在を自分以外の保証なしにそのまま信じることができるのか。

ドンの生き方ははあまりにも美しい。

そう感じるからこそ怖くなる。

何回読んでも俺とドンの距離は縮まらない。

ドンはいつも美しく作品の中にいて、俺は読むたびに深く感化されるのに、自分自身の人生ににそれを反映させることをしない。

翌日にはせっせと傲慢で欲深い人生を再開する。

“存在自体に価値がある”とわかったふりをしても結局中学時代の価値体系に閉じ込められたまんまだ。

絶対にドンのようにはなれない、だが、ドンの中に人間の極限の美を見出してしまう。

このどうしようもない相克の狭間にいるとき、俺はやるせなくて泣いてしまうのかもしれない。

 (余談だが、私の涙腺は基本的にムキムキに締まっている。この前おじいちゃんが死んだ時も、中学生の時に学校一の不良(現在恐喝で服役中らしい)に毎日ボコられているときも泣かなかった。)



0 件のコメント:

コメントを投稿