2022年11月6日日曜日

『無職転生〜異世界行ったら本気出す〜』(理不尽な孫の手、KADOKAWA)

女性「へー、色んな本読んでるんだね、そういう男ってぶっちゃけ結構アリ、ねえ、じゃあさ、高校までに読んだ本で1番影響受けたのって何?」

俺「そーだなあ...『月と六ペンス』、かな、サマセット・モームの。訳は金原瑞人のやつ(ニコリ)。あ、知ってると思うけど作家の金原ひとみの父親ね、一応Tips。モームって結局大衆作家でしょみたいな感じですなめられがちだけどやっぱこの作品は出色だわ。高校生ながら妥協のない信念は時に狂気なるんだなあって思った記憶。恐ろしいような...でもやっぱ憧れちゃうよね、ああういうアーティスティックな生き方。あそこまではできないけど、俺もちゃんと自分なりに偏って生きてこうと思ったね。今山登ったりしてるのもそういう影響あるかも。特に印象残ってるのはさ、ストリクランドを引き止めようとする場面なんだけど...」


なあ、おい、在りし日の俺。

きけ。

嘘、ついたよな?この時。

高校までで最も影響受けた本はアレに決まってるのに。

そもそも高校のときに月と六ペンスの話の流れすらわからん理解できたなかったくせに訳者拘ってますアピールなんてよくできるな?

なんでこんなこと言った?

...まあお前の気持ちがわからない俺じゃないさ。

モテたかったんだろ要は。

だから読書を着こなそうとしてみたんだろ?

わかるよ。

だけどな、お前、結果どうなった?

覚えてるよな?

彼女のあの苦笑い。

そして沈黙。

はあ。

あのさ、中身空っぽなやつがいくら言葉で遊んでみてもそんなの響かねえんだよ。

バレバレなんだよお前の軽薄さは。

あえて言うわ。

最高にダサいよお前。

ふぅ。

まあそんなことだけを言いにきたわけじゃねえ。

今日はな、あの日俺が歪めちまった俺自身を救いに来た。

恐れるな。

内容の伴った言葉には“質量”が発生する。

これが、答えだ。


女性「へー、色んな本読んでるんだね、そういう男ってぶっちゃけ結構アリ、ねえ、じゃあさ、高校までに読んだ本で1番影響受けたのって何?」

俺「そーだなあ...『無職転生〜異世界行ったら本気出す〜』、かな。理不尽な孫の手(マゴノテソード)先生の。この作品知ってる?あ、知らない?まあいいや、いやあ、俺ロキシー先生推しなんだけど、負けヒロイン臭いな〜って心配しててさずっと。ほら普通に考えたら最有力がシルフィで次点でエリスじゃん?だからロキシー先生はキツいかな〜って思ってたんだけど、蓋を開けてみたらなんと理不尽な孫の手先生の小粋な計らい炸裂(笑)3人とも嫁にしちゃうって発想はなかったよね!あ、ごめんつまんない?まあシルフィ=デレクォーターエルフ回復魔法使い幼馴染、エリス=ツンデレ脳筋王女剣士幼馴染、ロキシー=ジト目ロリババア魔法使い先生とかいう全方向対応型強欲ラインナップを全員正ヒロインにしちゃうってどう考えても話が破綻しちゃうでしょってのを見事に納めちゃうの、理不尽な孫の手先生は令和のこんまりさんか!ってそもそもこんまりさん令和か(笑)おーい、ここ笑うとこね(爆)あ、あとはバトルシーンだったらやっぱり対オルステッド戦のエリス参戦シーンは外せないよね。あれはマジで鳥肌立っ...え、あ、うん、あ、まじごめん。ちな好きなキャラはエリナリーゼ・ドラゴンロード。」

2022年11月3日木曜日

『世界の名著40 キルケゴール』(桝田啓三郎編、中央公論社)

数年前に読書を通じて絶望したことがあった。

『世界の名著40 キルケゴール』(桝田啓三郎編、中央公論社)を読んだ時だ。

秋だったと思う。

私の本棚に積まれていた何十冊かのいつか読む予定の本の中にそれはあった。

多分何らかの本を読んでキルケゴールに興味が出た時にAmazonで1番安くて著作がまとまってる本を探して買ったんだろう。

なんとなしに手に取ってなんとなしに読み始めた。

油断していた。


「官能や懐疑や絶望に悩みとおし、美的に生きるか宗教的に生きるかの「あれか、これか」の決断の前に悩み抜いて、血みどろになったおのれ自らと戦っているキルケゴールを感じ取ることが必要なのである」



中央公論社の世界の名著シリーズの構成は統一されていて、必ず巻頭で取り上げる人物の生涯や思想の概要が編者によって解説される。その多くは情報量を重視した当たり障りのないものである。

だが、桝田啓三郎先生は違った。「キルケゴールの生涯と著作活動」の章立てで語り始めると、概説という導入の段階にもかかわらず、キルケゴール読解に足る覚悟の有無を突きつけてくる。

私は桝田啓三郎先生に恫喝されている感覚に襲われた。

果たしてその先にはただならぬ敬愛によって描き出されたキルケゴールがあり、圧倒された。


キルケゴールの作品は、誠実な自己告白のほかのなにものでもなく、一貫して実存のための自己自身との戦いの記録にほかならない


キルケゴールの思想(著作)は彼自身の人生(日記)と分かち難く一体化しており、それにより相補的に真実性が担保されている。

父の呪い、最愛のレギーネとの訣別、孤独な信仰...。

キルケゴールは生涯コペンハーゲンの片隅でたった1人思索に耽り、紙上で時にさめざめと、時に大声で絶えず泣きながら、また、ひたすら踊り続けた。


キルケゴールの思想は、実存的なものとして、もともと客観的なもの、普遍的なものと関わりがなく、彼自身体系を築こうなどとは思わなかったし、体系の可能性など信じないばかりか、人生の体系化にまっこうから反対したのである


徹底して実存的であるが故に、イロニー的(逆説的)に生きることしかできなかった悲哀。


客観的真理に対して主観的真理はそのために生きそのために死ぬことを願うようなものでなくてはならない


主観的真理への道を進めば必ず世間と乖離する。

それを承知でキルケゴールは主観的真理への道を進みまさに死ぬその時まで「血みどろになったおのれ自らと戦っている」状態だった。


「思想の表現の中に、その思想の主体である具体的な人間キルケゴールを読み取らなければならない」


論理ではないのだ。

キルケゴールの人生がこのような事態になるしかなかった、その故を我々は主体的に捜索しなければならないのだ。

読み進めていくうちにこの本に出会うために今までの私の読書があったという確信がどんどん強まっていった。

そして、章の最後、「死への挑戦」の項における、キルケゴールによるたった一人のキリスト教界との戦いとその後の死に様に胸を衝かれた。


「寸鉄人を刺すような痛烈な批判の警句、火を吐くような激烈な攻撃の文章が、いささかの容赦もない激しさで、そして誤解も曲解も起こる余地のない率直で的確な表現で矢継ぎ早に、しかもしだいに激越さを加えながら発表された。それはキルケゴールの生命を賭しての戦いであった」



「「私は死ぬためにここへきたのだ」キルケゴールは戦いが終わったことを知っていた。

〜中略〜

親友ベーセンとごく僅かな近親しか病床を訪れることを許さず、兄ですら拒んだ。臨終に牧師から聖餐を受けることをも拒んだ彼は、安らかに神に祈れるかと問われて、答えた。「うん、できる。僕はまず、罪の赦しを祈る。すべてが赦されることを祈る。それから、死に臨んで僕が絶望から解放させてもらえるように、それから、これこそ知りたいことだが、死がいつくるかを、少し前に、知らせてもらえるように、僕は祈る」

〜中略〜

1855/11/11夕方、キルケゴールは永遠の眠りについた


呼吸の乱れと心拍の加速を感じながらページをめくりつづけ「キルケゴールの生涯と著作活動」を読み終わった時、キルケゴールと桝田啓三郎先生と私が直列した。

そしてそこから逆説的に絶望が生成された。

私の今後の読書はこの書物の輔弼に留まる...。

生涯最高の書物に出会ってしまった興奮ともうこれ以上はないという絶望。

そもそも「キルケゴールの生涯と著作活動」は最初の100ページ程度で、その後に500ページ以上のキルケゴールの著作が続いているのだが、とてもそれを読む体力も気力も残されていなかった。

呆然としていた。

だが、もやのかかった頭の中で今やるべきことを突然理解した。

ふらつく足取りで家を出ると、私は最寄りのセブンイレブンに吸い込まれた。

コピー機で最初のページにあるキルケゴールの写真を印刷しスマホケースにそっと忍ばせた。

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あれから何年か経ち、今私の本棚にはキルケゴール関連の著作が数十冊あるが、全く難解で持て余している。


知識を求めるのではなく、著者との対話を通じて人間としての生き方を学ぼうというのでれば、百冊の参考書や解説書を紐解くよりは、どれほど困難であろうとも、一編でも二篇でも作品そのものを根気よく熟読しなくてはいけない」


「キルケゴールの作品はすべて内容解説を読んで梗概を知るだけで理解できるようなものとは、本質的に違うのである」


桝田啓三郎先生はキルケゴール読解のためにデンマーク語を独学習得した。

彼にとってキルケゴールは研究対象ではなかった。キルケゴールの思想と人生が相補的であるように彼の人生そのものとキルケゴールもまた分かち難いものであったのだろう。

今はただただ両者に敬服するばかりである。

2022年11月2日水曜日

『同じ月を見ている』(土田世紀、小学館)

俺なりに自分の人生を頑張ってきたつもりだ。

小中高と真面目に通って部活にも入って、勉強して大学入って山登って(?)就職して(辞めて)。

“社会にとっての善”と“自分にとっての善”の折衷点を見極めて、努力して、もちろん全てが思い通りに行ったわけではないし、俺だけの力でなんとかしたわけでもないけれど、それなりに自分の現状に納得している。

なのになぜか、この作品を読むと全ての前提を履き違えているような、何か途方もなく見当違いな生き方をしているような気になってしまう。

なぜ、この作品はこんなに私の存在を脅かすのだろう。

なぜ、この作品を読むと何回でも泣いてしまうのだろう。

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『同じ月を見ている』(土田世紀、小学館)は全7巻のマンガで、水代元(通称ドン)という人物が、人間社会に当然ある嘲笑、憎悪、侮蔑、嫉妬、嘘、裏切り、暴力を一身に引き受ける物語である。

天涯孤独でみすぼらしく端から見れば愚鈍なドンに対して世の中のいわば“普通の人”は簡単に残酷になる。

悪気のない悪意にさらされてボロボロになりながらもただ静かに笑っているドン。

ドンについて作中のある人物はこう言う

「あの子の人生には自分が勘定に入っていないんですから」

ドンは決して留まらない。

人がその尊さに気づくのはいつだってドンが立ち去った後だった。

「先生だってイヤだろ!?どんな事情か知らねえけど、こいつが行こうとしてる所なんざ見当がつく!殴られたり嘘をつかれたり裏切られたり...いいように利用されるためにわざわざこっちから出向いていくようなもんじゃねえか!!」

そして、物語は最後、一つの詩へと収斂していく。

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大学3年生の時にこの作品を読んだ。

大学生活を通して唯一の友人でありやたらと蔵書が多いIの家によく入り浸っていた。

これ良かったわ

ほーん読むわ

Iの勧める本の打率は10割なので読む以外に選択肢はない。

劇画っぽい硬派な絵だなあとか思いつつ読んでいくうちに、あれこれもしかして俺にとってめちゃくちゃ重要な書物じゃね?ということに気づき始める。

全7巻をイッキに読み午前2時、感動でぶるぶる手が震え、愕然とした。

え、やば...なんなんこれ...んん?え?ちょ待って、もう一回読むわ、ていうか目頭熱っ

それからすぐに全巻電子書籍で買い揃えて今日まで何十回も読んだ。

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ずっと行為にこそ意味があると思っていた。

だから何もできない自分に小中高は自信がなかった。

勉強はあんまりできない、部活もあんまり強くない、生徒会に入るわけでもない。

情熱のない生活の中、一生懸命何かに打ち込んでいる人を半ば羨望の眼差しで、半ば冷笑的に眺めていた。

一生懸命やって成果を出している人は羨ましかった。

逆に一生懸命やってるのに成果が出ない人は心の中で笑った。

人を見る目はそのまま自分に向けられた。

一生懸命やって結果が出ないことが怖かった、みんなに笑われたくなかった。

尊重されたかった。

だから、“一生懸命やる”という土俵に上がることができなかった。

結果が出れば良い。

だが、結果が出なかったら...。

学校の仲間内での評価がそのまま俺の存在価値だと思っていたから。

大学受験を通して社会的評価が俺の存在価値にすり替わった。

だから頑張るしかなかった。

大学に入って山登りを通じて行為の中に自分を見出した。

登山中、ヤバい局面の真っ只中のど真ん中にいる時の、自分の存在の絶対性を仄かに感じ取れる一瞬。

それは世界の全ての時間的広がりと空間的広がりが俺自身に圧縮封入されたかのような、揺るぎない感覚。

自分の存在を確かめるように登った。

大学卒業後、就職して10ヶ月で辞めた。

それから半年間、資格勉強のために自宅浪人しながらひたすら内省した。

それは俺の中に漂流している今までのあらゆる取り返しのつかないことを、あるべき引き出しにそれぞれ丁寧に仕舞っていく作業だったと思う。

それを通じて、やっと俺は俺自身の存在を無条件で肯定することができるようになった気がする。

社会が俺のことを無価値だと言っても今の俺は俺の存在をここにいるからというだけで絶対肯定できる。たぶん。

人間の価値は行為ではなく存在に宿る、と今だから言える。

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ドンには何もない。

家族も、学歴も、職も、お金も、家も、服だって一着しかない。

しかも口下手で鈍い。

はっきりと社会性皆無だ。

そんなドンは誰からも尊重されず、時にゴミのように扱われる。

ドンと関わり人がその存在の内に秘められた冒し難い絶対の価値を感じるようになるころ、ドンは誰に告げることもなく立ち去る。

何も持っていないのに、なぜ与えることを考えるのか。

なぜ自分の存在を自分以外の保証なしにそのまま信じることができるのか。

ドンの生き方ははあまりにも美しい。

そう感じるからこそ怖くなる。

何回読んでも俺とドンの距離は縮まらない。

ドンはいつも美しく作品の中にいて、俺は読むたびに深く感化されるのに、自分自身の人生ににそれを反映させることをしない。

翌日にはせっせと傲慢で欲深い人生を再開する。

“存在自体に価値がある”とわかったふりをしても結局中学時代の価値体系に閉じ込められたまんまだ。

絶対にドンのようにはなれない、だが、ドンの中に人間の極限の美を見出してしまう。

このどうしようもない相克の狭間にいるとき、俺はやるせなくて泣いてしまうのかもしれない。

 (余談だが、私の涙腺は基本的にムキムキに締まっている。この前おじいちゃんが死んだ時も、中学生の時に学校一の不良(現在恐喝で服役中らしい)に毎日ボコられているときも泣かなかった。)