2021/10/17
コサカ、アカホリ、スミ
こんばんは。
今日は現代社会において、典型的サラリーマンとして生きていくことが苦手な人が、典型的なサラリーマンとして生きていくために必要な心構えについて書きたいと思います。
結論から申し上げますと、それは、“生殺しにされる覚悟”です。
『サピエンス全史』に書かれているように、人間は狩猟採集から農耕へと移行する際に、ある契約を結びました。
「個の幸せを放棄する代わりに、種の繁栄を賜りますよう」
こうして、人々は家畜と農作物を奴隷化し、繁栄したかに見えました。
しかし、その実、種の繁栄という観点で言えば、人々は農作物と家畜の繁栄のために奴隷化されたとも言えるのでした。
人間はその過程で、種の繁栄のために個を捧げる精神=自己家畜化された個人が尊ばれ、その形質が選択され続けました。
ちょうど猪を豚に家畜化したように(人為的に)、人間も穏やかで調和を重んじる方向に家畜化されていきました(勝手に)。
その結果、個としてではなくシステムの一部としての個人がますます先鋭化していき、社会もそれに親和的な構造になっていきました。
何が言いたいかというと、
「俺は社畜じゃねえ、自畜だ」
社会は何も強制しません。
論理的に考えれば有給を20日連続で使えます。
法律で決まっているからです。
私は今すぐ会社をばっくれて沖縄に行くことができます。
おそらく1日かからないでしょう。
しかし、私はそれができないのです。
社会はただふんわりとそこに存在し、微弱な生権力を放ちます。
すると個人は勝手に自己家畜化し、あっという間に従順な自(己家)畜になるのです。
社会はいつだって優しい。
罰則規定はありません。
何も強制されていません。
社会は漠然とした風潮としてそこにあるだけ。
それが放つ存在感を私自身が勝手に解釈して私自身を律動させるのです。
結局、自作自演なんだと思います。
とはいえ!
種の繁栄のためには抗えません。
すなわち、喜んで全面降伏です。
耳を澄ませば聞こえてきます。
とてもありがたく尊い、ひたすら生きることへの絶対肯定が基調となって流れるメロディ。
このオーケストラでは“決死の覚悟”などというものは不協和音を生み出す害悪です。ブブゼラです。
おや、聖歌隊も出てきて歌いはじめました。
「正しく長く大事に生き抜くぞ!今が苦しくても未来があるぞ!未来のために今が辛くても耐えるんだ!」
なんて美しい。