
1
「なんていうか簡単に他人に迎合しないところが好きだったよ」
彼女は言った。
「ありがとう、ばいばい」
そう付け加えて、彼女は私の人生から去っていった。
2
自己欺瞞のないように生きてきたつもりだ。
だからこそ、彼女の不在が苦しかった。
言い訳ができない。
取り繕うことすらままならない。
心から関係を深めていきたいと切望する人、一緒に居続けたい人、大好きな人に私の本当を拒絶されてしまったら、どうすれば良いのだろう。
迷いと、虚無と、行き場のない愛の残滓と。
私は内側に渦巻く悲観の混沌に従順であることしかできなかった。
3
なぜ澗満滝を登ったのか。
なぜ澗満滝でなければならなかったのか。
大いなる不確かな存在の内側に潜り込んで、滅茶苦茶にされた挙句、死亡寸前で生還したかったのだろうか。
違う。
いや、違わないかもしれない。
彼女の不在がもたらした心の荒野に蜃気楼を思わせる朧げな像として澗満滝が浮かび上がってきて、それは近づけば遠ざかり、遠ざかると近づいてきた。
ある夜、私は幼子がそうであるように、あらゆるものが捨象されて、まっすぐにその蜃気楼へと手を伸ばしていた。
4
鑑賞対象としての澗満滝は美しい滝だ。
その滝身は白と黒の間を行き来していて周りは緑に彩られている。同時に高く垂直に激しく屹立していて、そして、そこに一条というにはあまりにも散漫に水を垂れ流している。
すなわち、鑑賞対象としての澗満滝に宿る美しさ、それは貞淑さと聡明さを備えた天真爛漫な学級委員長である。運動神経も抜群かもしれない。
わかりやすく魅力的でありながら他を寄せ付けない高潔さも具備していて、一切が調和している。
だが、登攀対象としての澗満滝は美しく在ると同時に極めて困難な滝でもある。
107mという大きさ、岩の強烈な脆さ、傾斜の強さ、水量の多さ、情報の乏しさなどにより登攀の不確実性が著しく上がることが理由として挙げられる。
つまり、登攀対象としての澗満滝に、私が見るのは、ざんばら髪を振り乱しながら狂乱の笑いを撒き散らす老婆だ。
それは、醜態であり、不協和音であり、踏切遮断機によって離れ離れになった親子であり、北極星のない星空でもある。
5
澗満滝へは合計6回訪れたことになる。
1回目は鑑賞のため、2回目は登攀の偵察のため、3.4.5回目は登攀のため、6回目は残地物の回収のため。
3回目以降は大滝登攀の先端であるサカイさんと共に澗満滝を訪れ、5回目には撮影担当としてサカイさんの幼馴染であるタカバヤシさんが来てくれた。
6
2021年6月20日
3回目の来訪時、私とサカイさんは澗満滝の登攀を試みた。
1P目
中学生の頃。
学年一の不良だったOと敵対した私は、昼休みの教室で顔面を殴打された。
私は教室の隅で崩れ落ち、殴打された左眼を手で押さえてただただOを睨みつけることしかできなかった。
凍りついた教室。
「ちょっといい加減にしなよO君!」
その静寂の帳を破ったのは彼女だった。
時間は再び動き出し、彼女がOと睨み合っている横を通って、私はなす術もなく保健室へと連れていかれた。
あの時からだった気がする。
私にとって彼女の存在が取り返しのつかないほど大きな意味を持つようになったのは。
それは、命に関わる一目惚れだった。
2p目
中学生の頃。
バドミントン部だった私とバレー部だった彼女は同じ体育館で練習をしていた。
私の部活が緩かったこととは対照的に、彼女の部活はとても厳しく、体育館にはいつもバレー部顧問の怒号が響いていた。
ある日の部活中に体育館裏の水道へ行くと彼女がうずくまって泣いていた。
ぎょっとしたものの何も見てないフリをして立ち去ろうとした時、彼女が言った。
「誰にもいわないでよ!」
何と返せば良いかわからなかった。
当時の私の精一杯は、
「だから気づかないフリしたじゃん!」
と言って、走り去ることだった。
3P目
高校生の頃。
私と彼女は別々の高校に進学したが、通学時の最寄駅は同じで、乗る電車の時間も同じことがしばしばあった。
私はいつも駅に着くと彼女の高校の制服である青いワイシャツを探していた。
そして、彼女の後ろ姿を見て何度話しかけようとしただろう。
今思えば本当になんてことないことだ。
だが、当時の私には終ぞそれが出来なかった。挨拶さえも。
頭の中で何回も喋りかける予行演習をして、でも現実では何も出来なくて、苦悩して、次こそはと決意する。
その繰り返しだった。
3P目の登攀で墜落した私はロープにぶらさがりながら墜落地点を仰ぎ、睨みつけていた。
左手で保持していた巨大な岩が体重をかけた瞬間に大きく動き、その連鎖反応で足場が崩壊して墜落した。
直前に極めたプロテクションで墜落は止まったものの、落石によってロープの外皮は破断し、墜落を止めたスリングはほとんど切れていた。
「もう一回トライしていいっすか?」
確保してくれているサカイさんに聞くと、複雑な表情を浮かべながらも同意してくれた。
ロープの外皮が破断した部分10m程度を切断して結び直し、トライを続行する。
だが、墜落地点の上部の岩の状態はあまりにも不安定であり、登攀を継続することにより先の墜落時と同等以上の崩壊を招く危険性が高いことは明白だった。
結局私たちはその地点から下降した。
私たちはこの日、澗満滝を登ることができなかった。
7
2021年7月17日
私とサカイさんは再び澗満滝の登攀を試みた。
このときは撮影担当としてタカバヤシさんも来てくれた。
1P目
大学生の頃。
成人式で会った彼女は私の懸念を遥か凌駕しており、衝撃そのものだった。
それによって私の中には、完璧に操作不可能などうしようも無い彼女への愛情、凄まじい暴風域を伴った台風、いや、地球を滅亡へと導く超巨大隕石とでもいうべき感情が同時多発的に発生し、頭の中が木っ端微塵になった。
2P目
大学生の頃。
初めて彼女と私の2人きりで食事に行った。
夢か現か判断つかない感覚で、ずっとくらくらしていた。
帰り道、駅へ向かう途中、私はあたかもこの世界で最も自然な現象の一つであるかのように彼女の手を握った。
彼女は教科書に載せたいくらい模範的な驚愕の表情を浮かべたのち、まっすぐ前を向いて何も喋らなくなった。
私も何も喋れなかった。
「切符買わなきゃ」
券売機の前に来て、彼女は独り言のように言った。
彼女があの時に私の手を握り返してくれていたかどうかは、もう忘れてしまった。
3P目
大学生の頃。
下宿先へ高速バスで帰る際に、乗車場所のサービスエリアまで彼女が車で送ってくれた。3月の夜はまだ随分と寒さが残っており、バスが来るまでの間、2人で車内に居た。
手を繋いで、口数はお互いに少なかった。
夜景がよく見える駐車場だった。
彼女はその時ピンク色のモコモコした生地の上着を着ていて、それを思い返す度になぜか少し笑える。
4P目
2人でもんじゃ焼きを食べに行ったこともあったな。
ただただ、楽しかった。
そして、愛おしかった。
だけど、愚かだった。今も。
5P目
「結婚を前提に付き合ってる人がいるんだよね」
或いは、なんてことないことのような、今日の天気についてのような、そんな話ぶりだったかもしれない。
私にしたってこの報告は別に青天の霹靂だったわけではない。
そうだったはず。
だが、恥も外聞もなく、情けなく、みっともなく、私は全てを告白した。後出しで。
ここまで面の皮の厚い人間だったのだ私は。
そして、彼女は審判を下した。
6P目
「なんていうか簡単に他人に迎合しないところが好きだったよ」
彼女はそう言ってくれた。
「ありがとう、ばいばい」
最後の言葉の残響が、鳴り止まない。
21時00分
私とサカイさんは澗満滝の落口にいた。
5回目の来訪で、私たちは澗満滝を完登した。
8
澗満滝を登る前、友人からこんなことを言われた。
「"あの時の私は、あの時の私でしかあり得なかった" という苦しみが、今のお前を苦しめているんだな」
"あの時の私は、あの時の私でしかあり得なかった"
今の私が、今の私でしかありえないように。
そこに、後悔も仮定も入り込む余地はない。
ならば、この苦しみにどのような解釈を与えれば良いのだろう。
過去は不可塑なのに、私の過去は私を形作る全てなのに、私は今、私の過去そのものが苦しい。
9
澗満滝を登って気づいたことがある。
この滝は一定ではない。
一見堂々たる威容を誇り整然として充実しているにも関わらず、その実、とても不安定で止めどなく、どうしようもなく崩壊し続けている。
つまり、澗満滝は崩壊によりいずれ全ての落差を失い、その存在は滅亡する。
流れ続ける水も、触れただけで落ちる岩も、澗満滝が変化し続ける有限な存在であることの証左だ。
そして、今この瞬間も自身の滅亡に向けて変化し続けている。
絶えず変化し続けるということは、絶えず滅び続けているということでもあるのではないか。
この気づきを私に敷衍するなら、生きるということは絶えず死という結末に向かって変化し続けるということであり、死ぬということは一定になるということであると言えるはずだ。
そうであるならば、私自身が生きている以上、一定であるものなんて何一つない。
毎分毎秒私の身体も心も全て変容し続け、更新され続ける。
これは、今私が抱えている苦しみにだって適用できる。
過去は確定した事実であり変容しないが、苦しみの根源は過去という事実に対する解釈だ。
私は今、私自身の過去に対して苦しみという解釈を与え続けている。
そして、この苦しみはこの先和らぐ保証はないし、和らがない保証もまた、ない。
だが、今のこの苦しみが永劫続かない保証はある。
それは澗満滝の存在が有限であるように、私の生もまた限られているからだ。
だからこそ、生きるということは、滅びるということは、怖いことだが、愛おしいことでもあるのだ。
問い続けるしかない。
だが、永劫続くかのようなこの苦しみさえ、絶えず私とともに変化し続け、そして私とともに滅びゆく。
それは、今の私にとっては救済であるように思える。
